松任谷由実「ひこうき雲」歌詞考察:「空に憧れて」という言葉に秘められた死生観
導入:儚い生命と空への憧憬
松任谷由実氏(荒井由実名義)が1973年に発表した楽曲「ひこうき雲」は、その後の日本の音楽シーンに多大な影響を与えた名盤『ひこうき雲』の表題曲であり、今なお多くの人々に愛され続けています。この楽曲の歌詞は、短い命を終えた友人を悼む歌として広く知られていますが、単なる追悼歌にとどまらない、独特な死生観と文学的な深みを湛えています。特に、「空に憧れて 空をかけてゆく」というフレーズに込められた意味は、多くのリスナーにとって印象深く、様々な解釈を呼び起こします。本稿では、「ひこうき雲」の歌詞を文学的な視点から分析し、そこに込められた作者の意図や、描かれる死生観の真意について考察を進めます。
「ひこうき雲」という象徴
楽曲のタイトルであり、歌詞の冒頭に登場する「ひこうき雲」は、この歌全体の重要な象徴として機能しています。
白い坂道が 空に続いていた ひこうき雲ができては 消えてった
(中略)
ひこうき雲を追いかけて 追いかけて
引用箇所に見られるように、「ひこうき雲」は、空に一時的に現れてはすぐに消え去る、非常に儚い存在です。これは、この歌で悼まれる「重い病気」にかかった友人の、短くも燃え尽きるように生きた人生、そしてあっけなく失われた生命そのものを象徴していると解釈できます。また、地上から見上げる「ひこうき雲」は、手の届かない、遠い存在であると同時に、空という自由な空間への痕跡でもあります。この視点は、後に考察する「空に憧れて」というフレーズと深く関連してきます。
「重い病気」と「空に憧れて」の対比
歌詞の中で最も直接的に、悼む対象について触れているのが以下の部分です。
どこかにいる 重い病気の友達を 私たちは見送った
そして、その友人がどのような存在であったかを、印象的な言葉で表現します。
すばらしい 雲一つない青空のように すばらしい ひとだった
空に憧れて 空をかけてゆく あなたはそう ひこうき雲みたいだ
ここで注目すべきは、「重い病気」という身体的な制約や苦しみを示す言葉と、「空に憧れて」「空をかけてゆく」という、自由や解放、願望を示す言葉が対比されている点です。「病気」によって地上に縛られ、身体の自由を奪われた存在が、死によってその肉体を離れ、「空」という無限の空間へと解き放たれるイメージが描かれていると読み取れます。
「空に憧れて」というフレーズは、単に「空を飛びたい」という物理的な願望ではなく、地上での苦しみや制約から解放され、より高次の、あるいは自由な存在になりたいという、精神的な希求を表しているのではないでしょうか。「空をかけてゆく」ことは、その憧れが死によって成就された様を描写していると考えられます。
描かれる死生観:昇天と解放
この歌詞が描く死生観は、一般的な宗教観とはやや異なるように見えます。キリスト教における「昇天」や仏教における「輪廻転生」といった特定の教義に直接結びつく表現はありません。代わりに描かれるのは、地上での生が終わり、肉体という重荷から解放されて、光輝く存在として「空」へと溶け込んでいくようなイメージです。「雲一つない青空のように すばらしい ひとだった」という比喩は、その人の内面の清らかさや輝きを称えるとともに、死後にその存在が広大な青空と一体化したかのような印象を与えます。
死を悲しみ悼む感情はもちろんありますが、それ以上に、亡くなった人が「空に憧れて」いたその場所へと至り、自由を得たことに対する、ある種の静かな肯定や受容が感じられます。「悲しい」という直接的な言葉は使われておらず、むしろ「すばらしい」という言葉が二度繰り返されることで、亡くなった人への賛美と、その旅立ちへの理解が示唆されています。
文学的・詩的技法と普遍性
歌詞には、情感豊かな比喩表現が多く用いられています。「ひこうき雲」は儚い命、「雲一つない青空」は人の内面の清らかさ、そして「空」は自由や解放、あるいは死後の世界を象徴するメタファーとして機能しています。また、「追いかけて 追いかけて」という反復は、亡くなった人への追慕の念や、失われたものを取り戻したいという無意識の願望を表しているのかもしれません。
この楽曲が発表された1973年という時代背景も無視できません。高度経済成長の歪みや、それに伴う環境問題への意識が高まり始めた時代です。都市化が進み、自然との距離が広がる中で、「空」や「雲」といった自然の風景に、失われつつあるものや、人間が本来立ち返るべき場所といった意味合いが込められていた可能性も考えられます。しかし、それ以上にこの歌詞の強みは、特定の時代や出来事に限定されない、生と死、そして失われたものへの追慕という普遍的なテーマを描いている点にあります。だからこそ、「ひこうき雲」は時代を超えて、多くの人々の心に響くのではないでしょうか。
結論:静かな受容と美しい旅立ち
松任谷由実氏の「ひこうき雲」は、「ひこうき雲」と「空」という象徴的なモチーフを用いて、短い命を終えた友人の人生と、その死によって訪れた解放を描いた楽曲です。「重い病気」という現実的な苦しみから、「空に憧れて 空をかけてゆく」という詩的な解放への移行は、死を単なる終わりではなく、魂の自由な旅立ちとして捉える独特な死生観を示しています。
この歌詞は、死に対する感傷的な悲嘆に溺れるのではなく、むしろ静かな受容と、旅立った人への賛美をもって締めくくられています。それは、死を経験した悲しみを内包しつつも、残された者が、亡くなった人の生きた証とその魂の自由を静かに肯定する姿勢であり、聴く者に深い共感と同時に、生と死に対する新たな視点を与えてくれるのです。